むめい

音楽、映画、小説、スポーツ、ノルウェーのこと、とか。

24  高野文子『るきさん』 規範から解放された、ゆるい友情。今の日本にはない理想郷。

   最初、この作品はシスターフッド的だと思っていて、それを軸に書いていったら面白いかもしれないと思い、タイトルも「ゆるいシスターフッド」とかにしようとしていた。しかし、ちょっと調べて行くうちにシスターフッドのカウンター性や重みが感じられて簡単に使うべきではないなあ、と感じるに至った。

というのも、るきさん世界線は(今の日本から見ると)あまりに理想的すぎるから。

 

著名な漫画家、高野文子による『るきさん』(1988-1992『Hanako』にて連載)。私は『絶対安全剃刀』を読んだくらいの人間なのだが、古本屋で偶然当書を見つけた。主人公の「るきさん」が『二十四の瞳』を枕頭で片目で読むユニークな表紙にこの漫画の持つ洒脱性が見てとれそうだった。

 

この漫画にはほとんど主人公の「るきさん」と親友の「えっちゃん」しか出てこない。終始、この二人の物語といっても差し支えないだろう。そこに私はシスターフッドをみたけれど、彼女らは特に悩みもないし、偏見に晒されない。

 

るきさんは「サザエさん」に近い、と思う。社会におけるステレオタイプな女性像に反逆する、という姿勢ではなく、ハナからそこにチューニングが合っていない。るきさんにはおおよそ他人の目は存在していないし、いわば、ただ好きなように好きなことをするだけの存在。

親友のえっちゃんは、いわゆる月並みな「結婚していない」とかに悩んだりするけれど、それはあくまでるきさんと比べて自分が常識的な世界にいるんだ、という再認識にしか思えない。えっちゃんは男の目を気にせずに自分の着たい服を着るし、自立してデザイナーズマンションに住んでいる。

 

この作品では、るきさんも、えっちゃんも今現在女性が当てはめられそうな規範から自由だ。先述したように、完全な二人だけの世界だから、なにをしても誰かが「つっこむ」ことがない。るきさんが畑でおしっこをするといっても、えっちゃんがおならをしても、咎められない。この「当たり前」がとても気持ちよく、不快感なく読み進めることができる。

もしかしたら、当時の読者層にもこういう関係を持つ人たちがいたのだろうか。だとすれば素敵だ。

そして、規範から自由な、るきさんとえっちゃんは、旧来の友情観からも自由。

何も気にせずなんでも食べるるきさん。ちゃんと保存料を確認して食べるえっちゃん。

高校の服を着るるきさん。シーズンの新作を買うえっちゃん。

価値観が反対でも、寛容さでそれらを軽々と飛び越えてくる。

 

そのゆるさは、最終話でその極致をみる。

るきさんは、いきなりえっちゃんに電話で「切手を売る(るきさんは切手集めが趣味)」と告げる。そして、「永らくお世話になりました」と言い残し、ナポリに単身渡ってしまうのである。

個人的に痛快なのはここからで、ナポリへ行った、るきさんからえっちゃんへ手紙がくるのだが、そこで、るきさんは段ボールの机の上で炊飯器を側において魚を食べている。それをみたえっちゃんは「ほんとにナポリかあ?」と言って終わりなのである。

この親友同士にしてはあまりにドライな別れ方は、互いが依存しあうことなく生きていることの証左であり、この作品に流れる雰囲気をひとことで表しています。

ちなみに、解説文を寄稿している氷室冴子さんもこのシーンがとても好き、と述べています。

 

ともすれば、「理想的すぎる」作品なのかもしれませんが、目指す社会としてはこういうものがいいだろうし、フェミニズムっていうものの目指すところはこういうものであって、けして男性を抑圧するとかそういうものではないと思っているので、偏見がある人にこそ読んでもらって、その「理想郷」を確認してもらいたいかも。