むめい

音楽、映画、小説、スポーツ、ノルウェーのこと、とか。

28 数字の形から連想されるアーティストを決めよう(2010-2021)

私は偶数を暖かいと思うし、奇数を冷たいと思う。

私は2017年の字面は最高だと思うし、2015年は野暮ったいと思う。

私は19歳が好きじゃなかったけど、21歳は最高だった。

好きな背番号は23 

好きな曲は8823...

 

数字と色が結びつくとか、イメージが結びつくのはそんなに珍しいことではなくて、割と普遍的な現象だと思う。

音によって色を感じる人がいるように、数字にも色や雰囲気がある。

特にこの日本では、数字に意味付けをすることもあるから(4号室が無いとか)、

余計それが身近に感じられるんではないかな

今回はそんな数字の雰囲気をもとに、この10年間の数字に近いようなアーティストを決めたい。

この年のセールスがどう、とかそういうのではなく、ただ数字の持ってる雰囲気が何に近いか?を妄想するだけです。

 

2010から。

2010  Maroon5

とかく切りが良く、大衆性のある数字。この10年の始まり。

あまりに荷が重いけど、雰囲気があるから仕方ない。

みんなが好きそうな数字だし。

2011 Frank Ocean

インディー感が増した。冷たいイメージ。

1という数字には連帯を感じない。

2012 Kraftwerk

少し暖かみがある。2と2に挟まれていて、無機的な感覚もある。

電子音楽かな。

2013 QUEEN

3という数字は少し間の抜けたイメージがある。

のび太の目のせいか?

ただ、割り切れないところもあり、面白く柔らかに見えつつ、裏があるよう。

2014 ミツメ

偶数の暖かみはあるんだけど、少し冷めている感じがある。

色で言えば緑とか紫になるんだろうか。

縦に長い数字にはある種の気高さがあるのか。

2015 The Weeknd 

これだけは最初から決まっていた。

理屈じゃなく、このど真ん中を背負わせるには彼しかいなかった。

2016 Men l trust

数字が丸っこい。色で言えばオレンジ。

人を穏やかに照らすような数字。

2017 Radiohead

これも最初から決まっていた。強い独立性から。

2018 星野源

これも16年の系譜だと思う。

8は演技がいい数字と言われているけど、その攻撃性のなさからだろうか。

武器というより防具に使われそう。

だけど、うまく使えば武器にもなる、そういう広さがある

2019 宇多田ヒカル

12、17年以来の無機性がある数字。

奇数を冷たいと思う傾向にあるが、19はそのなかにも凛としたところがある。

2020 乃木坂46

こんなに綺麗な数字はないし、困ったくらいに存在感がある。

なにをしたって注目されるだろうし、この年に誰を置くかへの論争は耐えないはず。

2021 Kanye West

20と対比されず、ただ道を進んでいく数字。真っすぐは進まなそうだけど、色々な風景を見せてくれそうな数。

 

以上、ここ10年の数字とイメージでした。

みんなも考えてみてね。

 

27 エスプレッソレモネードと苦手の更新。

 昔、エスプレッソーダという商品があった。

覚えている方いらっしゃるだろうか。すぐに店頭から消えてしまったと記憶しているので、あまり記憶にないという方のほうが多いかもしれない。

というのも、ネット記事で取り上げられるくらい不味かったのだ。

『エスプレッソーダ』を飲むべき理由は「味」ではないという結論 | ライフハッカー[日本版]

この商品が売り出されたとき、私は15歳くらい。丁度コーヒーをブラックで飲みだすようになり、もうコーヒー牛乳から卒業せんとするときであった。15歳という年齢で人間は結構背伸びをする。好きになれないマキシマムザホルモン無理やり聞いたりしてた。

そんな年齢の中学生は、エスプレッソーダを当然口にする。当時いきものがかりスピッツが好きだったのに頑張ってハードロックを聞いたように。

味の感想としては、最悪だった。

多分これまで飲んだ市販の飲料の中で一番不味かったと今でも断言できる。

飲んだ瞬間、身体が受け付けずそのまま吐いてしまった。

ベースにあるコーヒーの苦みが炭酸水の苦みと重なってエグみに昇華していたが、その苦みを打ち消すために甘味を足していたので、もう味の構成がめちゃくちゃだった。イコライザーの設定全部上にあげたみたいな感じ。

上記のネット記事でも言及されているが、無糖ならまだ飲めたと思う。変に甘いのが最悪だった。かくしてエスプレッソーダはトラウマ級の記憶になった。

松本人志が過去の著作で語っていたが、最高の映画と同じくらい最悪の映画は記憶に残る。

 

トラウマの乗り越え方(必ず乗り越えればいいということでもないと思うが)として私がしてきたのは、過去の更新。失恋の更新は新しい恋で埋めるみたいなことだろうか。そこができて初めて過去が受容できる。(私は)

それゆえ、私はエスプレッソーダ(コーヒーショップではエスプレッソトニックということが多い)を目にすると口にしてきた。いくつかのコーヒーショップで飲んだエスプレッソトニックはどれも不快でなく、むしろ好きな部類であった。

それなりの経験値を積んで、エスプレッソ+ソーダに恐怖をそこまで覚えなくなったころ、自宅近くのカフェでエスプレッソレモネードの文字を目にした。

エスプレッソとレモネードは苦みと甘みが正面衝突しそうだ。レモネードにはほのかな苦みもあるし、苦みが加速しそうだ。躊躇う私に店主はおすすめと言う。

逃げちゃダメだ精神に支えられ、エスプレッソレモネードを頼んだ。

エスプレッソが沈殿しているから飲むときには混ぜてねなんて言われて。

飲んだ瞬間、身体が受け付けていた。むしろ好きな味であった。エスプレッソの苦みが爽やかな苦みとして加算されており、甘みもくどくなかった。

 

 

タランティーノの映画を全部見た友人がいる。どうしても好きになれなかったから、という理由で結局全部見たらしい。友人も、そんなに好きになれなかったタランティーノを更新するために見続けた。

私も村上春樹が初めて読んだ1Q84が苦手だったが、辞めずに読むと初期作は好きだった。まだ全部読んでいないけど。

でも、頑張れるくらいの最低な記憶じゃないと頑張りたくない。浪人とか二度としたくないし。

26 『ALBUM OF THE YEAR 2020』

 ノートパソコンがお釈迦になり、スマホから投稿しております。
内容は表題のとおり。
インスタに投稿しようと思っていたのですが、字数制限で投稿できず。ここに埋葬します。
では!

Mac Miller 『Circles』
HAIM『Women in Music Pt. III』
Tame Impala『The Slow Rush』
GEZAN 『狂』
Yves Tumor 『Heaven To A Tortured Mind』
藤井風『HELP EVER HURT NEVER』 
青葉市子 『アダンの風』
羊文学 『POWERS』
Ambrose Akinmusire『On The Tender Spot Of Every Calloused Moment』

以下感想。





Mac Miller 『Circles』
新型コロナウイルスが流行し、人々は踊る場所を失いました。それゆえ、今年のシーンはフォークやアンビエントといった柔らかな音に対する評価が高かったかと。
それを予感したかのように、Mac Millerはコロナ以前の1月に、内省的でヒーリング的なアルバムを提示しました。これが遺作となってしまいましたが、正に2020年的な空気を持つアルバムでした。

HAIM『Women in Music Pt. III』
今年は女性の年だった、といっても過言ではないくらい女性アーティストがシーンの一線で活躍したと思います。phoebe bridgers, Laura Marling, yaeji etc...
HAIMはその露骨とも思えるタイトルから女性が音楽をするということ、ロックの世界にいること、というのはどういうことなのか?ということを伝えてくれます。挑戦というより現実の報告。そしてそれは素晴らしい歴史への道標。

Tame Impala『The Slow Rush』
サイケの再評価を確実にした一枚。散々話題になっていましたが、話題を全く裏切らない出来で、何回も聞き直す気持ちよさがあります。このアルバムでは「距離」を感じることができると思っています。
ある種ラジオ的とも思える響きになったり、耳元での快感を得られたり、と。
日本ではWool in the pantsがこれに近い雰囲気でした。

GEZAN 『狂』
東京を中心にした日本は、AKIRAでの引用を用いれば、「熟しすぎて腐りかけた街」なのかもしれません。GEZANはそんな我々に目覚めよと呼びかけます。宗教と学生運動の間にあるような異様な熱が私たちの胸をざわつかせる。カロリーを消費するアルバムですので、正直何回も聞いたアルバムではありません。問いかけになにを思いますか。

Yves Tumor 『Heaven To A Tortured Mind』
プリンスやボウイのような特定の性別を感じさせないような音楽家の系譜をYves Tumorには見てしまいます。しかし、Yves Tumor をジェンダーレスといったふうに捉えるのにも違和感があります。何故なら、ジェンダーレスはジェンダーを基盤にしますが、Yves Tumorはある種それを超越し、宇宙生物的なものすら感じさせるからです。新たな性別を指し示すかのよう。
アルバムとしては、新たなゴスペルというタイトルながら、妖しく、重い。そして美しいサウンドに彩られた一枚。今年のベストアルバムです。

藤井風『HELP EVER HURT NEVER』
「カバーの上手いYouTuber」だった藤井風は、今年日本の音楽界にまさしく新しい風を吹き込みました。
近年は、いわゆる「グッドミュージック」が日本でも流行してきて、強度のあるポップスが多く作られてきたかと思います。しかしまだ大衆に届ききらない歯がゆさも同時に感じているのではないでしょうか。
藤井風は大衆に届けられるだけのスター性を持っていると思います。新しさと懐かしさを併せ持つ音楽で。
それは、宇多田ヒカル椎名林檎のような…。

青葉市子 『アダンの風』
年の瀬に発表された青葉市子の新譜をベストアルバム入れなかった!という後悔をされている方も多いのではないでしょうか。
南国というテーマを真冬に持ってくることに違和感を覚えないほど、このアルバムは様々な視点で捉えることを可能にします。
私は、このアルバムはマクロスゼロの雰囲気が多分にある音楽だと思っているので、是非ともマクロスゼロのリメイク(劇場版化など)があれば、音楽は青葉市子に依頼するべきだと思います。

羊文学『POWERS』
羊文学のメジャーデビューアルバム。昨今、世界的に見ると、メジャーとインディーズの差異はほとんどなくなってきており、メジャーデビューだからなんなんだ?という気持ちがリスナーにもあるかと思います。
とはいえ、このアルバムには文字通りメジャーになるための粒が沢山入っています。
先述の藤井風のように、塩塚モエカにもかなりのスター性があります。
どうかレーベル色に染まりすぎず、繊細かつ心を離さない音楽を見せてほしいです…。

Ambrose Akinmusire『On The Tender Spot Of Every Calloused Moment』
この9枚の中で、一番緊張感のあるアルバム。ピンと張り詰めた糸のような演奏。
静謐という言葉が相応しい、美しい一枚。

25『THE THIRD SUMMER OF LOVE』そして、最後に救われる。

 ラブリーサマーちゃんの3枚目のアルバムが9月16日にリリースされた。お恥ずかしながら今年まで名前も知らなかったし、名前で少し敬遠する気持ちもあった。

でも、ラブサマちゃんの先行シングルはそんな私に大きく揺さぶりをかけた。

「I Told You A Lie」も「どうしたいの?」も「AH!」も際立っていた。

こんなしっかりしたギターとドラムを響かせながらポップのセンスも抜群な歌手がいることに素直に感銘を受けた。ガンダム00ブリリアントグリーンを聞いて以来の高揚感だった。(実際影響があるとのことです)

そこから過去2枚のアルバムを聞き、粛々と新作を待っていた。

過去作を聞いた私の印象としてのラブサマちゃんは、繊細なソングライティングとユーモアさ。

1枚目の『LSC』では、「202」でちょっと私には重すぎるくらいの切なさを与えてから、「私の好きなもの」で爆笑させてくれた。この曲、「パンケーキ食べたい」に近いですよね、しかもアイドルカルチャーへのオマージュもあって最高。

2枚目でもその雰囲気は継承されていて、メロー、疾走感、ユーモアの配分は守られつつも、「おやすみ」にみられるようなボサノヴァなど、その幅広さに驚かされた。

そのユーモアが顕著に表れているのは最後の曲であると言っていい。『LSC』でもみられたこの最終曲のユーモアは大変に興味深いが、2枚目最後の曲である「My Sweet Chocolate Baby!!」ではもっと「悪質」になっており、かなり長い時間無音なのである。このサブスク時代に信じられないやり方だけど、この曲のモキュメンタリ―性は素晴らしいし、本当に馬鹿らしくて最高。この世界から救われる気持ちがする。なんだかSuperorganismとの親和性を感じる。

前置きが長くなった。では、『THE THIRD SUMMER OF LOVE』はどうだろうか。

感想を短く述べると、前作よりも更に硬質に、繊細になった感じがある。ラブサマちゃんの持つアイドル的な作風はかなり息を潜め、ギターで勝負すると言わんばかりの一作になっている。

ありきたりな言葉を誤解ありきで使うならこの作品は「強い」と感じられるだろう。

特に「どうしたいの?」は歌詞を読みながら聞いていると息が詰まる思いがある。ラブサマちゃんの覚悟が感じられる一曲。なぜなら、Twitterでラブサマちゃんを見ていると、いつも強い!みたいな人ではないのかな?と思うから。

ラブサマちゃんはバカみたいなインタビューを沢山受けて疲弊していた。でも、そこから対話を重ねてその世界と共存する姿勢も見せてくれた。

その姿勢は今作を貫いているのではないのかな?とも想像できる。「AH!」では疾走感のなかに「斜に構えた」気持ちを覗かせるし、「心ない人」では結局想う人を嫌いになれきれない弱さを見せる。

しかしながら、「豆台風」「LSC2000」で転換を迎える。これまでの作品の主役は、パッシヴに傷ついていたけど、このあたりから傷ついたうえで世界と自分の距離感をすこしずつ掴み始める。「ミレニアム」では、世界への希望を見出す。「アトレーユ」で怖さとも折り合いをつける。

が、「サンタクロースにお願い」で少し弱気になってしまう。そこから、「どうしたいの?」という強烈な自己批判とも思えるような曲がくるので、奮い立たせているのかな?と邪推してしまうくらい。

その劇薬の甲斐あってか(?)、「ヒーローズをうたって」で辛かったけど、Heroes(ボウイのかな)に救われた気持ちを素直に歌う。弱さと向き合う本当の強さを手に入れたかのよう。こういうのに本当に弱いので、ストレートに響いてしまった。

そして、最後の曲。前回よりも「さらに悪質」な最終曲。

この曲があることで、ラブサマちゃんのユーモアセンスが生きていることを再認識させられる。色々辛いことがあり、その上で少しだけ強くなった物語。そのラストはそんな風に感傷にひたる奴らを少しだけからかってくれる。どう?これが正解でした!と言わんがばかりの20:20。2020なのはもちろん計算であろうが、この2020年というあまりに退屈で、感傷的な1年にラブサマちゃんは向き合いながら最後に笑い飛ばす。そんなちょっぴり上から目線の1曲に結局私は救われたのである。

24  高野文子『るきさん』 規範から解放された、ゆるい友情。今の日本にはない理想郷。

   最初、この作品はシスターフッド的だと思っていて、それを軸に書いていったら面白いかもしれないと思い、タイトルも「ゆるいシスターフッド」とかにしようとしていた。しかし、ちょっと調べて行くうちにシスターフッドのカウンター性や重みが感じられて簡単に使うべきではないなあ、と感じるに至った。

というのも、るきさん世界線は(今の日本から見ると)あまりに理想的すぎるから。

 

著名な漫画家、高野文子による『るきさん』(1988-1992『Hanako』にて連載)。私は『絶対安全剃刀』を読んだくらいの人間なのだが、古本屋で偶然当書を見つけた。主人公の「るきさん」が『二十四の瞳』を枕頭で片目で読むユニークな表紙にこの漫画の持つ洒脱性が見てとれそうだった。

 

この漫画にはほとんど主人公の「るきさん」と親友の「えっちゃん」しか出てこない。終始、この二人の物語といっても差し支えないだろう。そこに私はシスターフッドをみたけれど、彼女らは特に悩みもないし、偏見に晒されない。

 

るきさんは「サザエさん」に近い、と思う。社会におけるステレオタイプな女性像に反逆する、という姿勢ではなく、ハナからそこにチューニングが合っていない。るきさんにはおおよそ他人の目は存在していないし、いわば、ただ好きなように好きなことをするだけの存在。

親友のえっちゃんは、いわゆる月並みな「結婚していない」とかに悩んだりするけれど、それはあくまでるきさんと比べて自分が常識的な世界にいるんだ、という再認識にしか思えない。えっちゃんは男の目を気にせずに自分の着たい服を着るし、自立してデザイナーズマンションに住んでいる。

 

この作品では、るきさんも、えっちゃんも今現在女性が当てはめられそうな規範から自由だ。先述したように、完全な二人だけの世界だから、なにをしても誰かが「つっこむ」ことがない。るきさんが畑でおしっこをするといっても、えっちゃんがおならをしても、咎められない。この「当たり前」がとても気持ちよく、不快感なく読み進めることができる。

もしかしたら、当時の読者層にもこういう関係を持つ人たちがいたのだろうか。だとすれば素敵だ。

そして、規範から自由な、るきさんとえっちゃんは、旧来の友情観からも自由。

何も気にせずなんでも食べるるきさん。ちゃんと保存料を確認して食べるえっちゃん。

高校の服を着るるきさん。シーズンの新作を買うえっちゃん。

価値観が反対でも、寛容さでそれらを軽々と飛び越えてくる。

 

そのゆるさは、最終話でその極致をみる。

るきさんは、いきなりえっちゃんに電話で「切手を売る(るきさんは切手集めが趣味)」と告げる。そして、「永らくお世話になりました」と言い残し、ナポリに単身渡ってしまうのである。

個人的に痛快なのはここからで、ナポリへ行った、るきさんからえっちゃんへ手紙がくるのだが、そこで、るきさんは段ボールの机の上で炊飯器を側において魚を食べている。それをみたえっちゃんは「ほんとにナポリかあ?」と言って終わりなのである。

この親友同士にしてはあまりにドライな別れ方は、互いが依存しあうことなく生きていることの証左であり、この作品に流れる雰囲気をひとことで表しています。

ちなみに、解説文を寄稿している氷室冴子さんもこのシーンがとても好き、と述べています。

 

ともすれば、「理想的すぎる」作品なのかもしれませんが、目指す社会としてはこういうものがいいだろうし、フェミニズムっていうものの目指すところはこういうものであって、けして男性を抑圧するとかそういうものではないと思っているので、偏見がある人にこそ読んでもらって、その「理想郷」を確認してもらいたいかも。

23 「僕たちの嘘と真実」、それは無責任な大人によって作られたもの

 恐らく坂道オタクの間では十分に話題になっているであろう、欅坂46ドキュメンタリー映画「僕たちの嘘と真実」を観てきました。

先に見に行っていた友人から「本当に欅坂のイメージが変わる」「しばらく欅のことしか考えられなくなる」と言われていたので、期待半分恐怖半分で映画館へ足を運びました。

正直、明るい話ではないであろうことは私にも分かっていましたし、ちょっと怖いもの見たさ的なマインドも持ち合わせていました。ここはあえて太字にしています。

そして、観終わってこう思いました。

「欅坂は終わってよかった」と。

加えて、こうも思いました。

「俺は欅の破滅を見たがっていたのでは・・?」とも。

この感情が引き起こされた原因は2つ。簡単です。

前者は運営に対する批判。そして、後者はオタクに対する批判。

では、この2つの批判軸はどうできたか?を述べていきます。

 

1.無責任な運営

私は欅坂運営の人間ではないので、映画で提示された以上の情報を知りえません。しかしながら、劇中の大人たちはあまりに無責任で、いわば「勝利至上主義」から来るような単線的な思考でメンバーを摩耗させていきました。メンバーに限界が来ているのを知りながら。

では、なにが無責任なのか?

1-1 平手への対応

もう明らかなので、あえて言います。欅坂の存続条件には平手がセンターを務めること、そして、平手が納得できる制作ができること、という二つがあったでしょう。

一つ目は、平手が抜けたときの対応にもみられる平手頼りの体制に明らかでした。ほぼのメンバーは平手と比べて・・という対応で、その人のカラーで勝負する土壌が育っていなかった。劇中でその個性が見られるのは小池・鈴本くらいではなかったでしょうか。二つ目は、結局平手が納得しなければ作品を外に出さない体制です。劇中でもありましたが、平手が納得しないからシングルは出ませんでした。メンバーの感情を抜きにして考えると(したくはありませんが)、やはり欅は平手に支えられたものであったでしょう。

その絶対的才能を持つ平手を運営は使い倒しました。

これでは、平手は持たない、もしかすると生命の危険も考えられるのに。

この平手への対応に、私はひと世代前の高校野球を想起しました。

沖縄水産大野倫投手を思い浮かべたのです。

大野は偉大な才能を持っていましたが、それ故に監督は目の前の勝利に固執し、ケガをして本来の実力を出せていない状況の大野に「お前と心中する」と言い、マウンドへ送り続けたのです。そして、高校をもって、甲子園決勝に沖縄県勢を進めた大野の投手生命は終わりました。

平手への対応もこれに近かったと感じます。明らかに摩耗している平手。しかし、平手の絶大な才能を諦めきれず、大人は平手を表舞台へ送り出し続けます。仮に平手が「嫌だ」と言っても。

欅が平手と心中するなら、運営は平手への対応をもっと考えるべきでした。感受性が異常に高い平手に「孤独」「疎外」を歌わせ続けてよかったのか?

アイドルは自分で曲を選べません。ビリーアイリッシュはBad GayからMy Futureに移行できましたが、平手にそれはできません。黒い羊の平手は見ていられませんでした。

1-2 止まらない運営

 劇中、振付師のTAKAHIRO氏が「大人の責任」は「見守り続けること」と言っていました。正直、私はここに違和感を覚えずにいられませんでした。

あの欅の状態に対して大人がやるべきだったことは「立ち止まる」ことであったでしょう。見守って維持させてしまうと、本当に誰か危険な状態になってしまう可能性がありました。石森が述べたように、「みんなで崖のさきに手を繋いで立っている感じ」にまでメンバーを追い込んでいるにも関わらず、平手を重用し、勢いそのままにライブも行った。

運営はメンバーにもっと考える時間を与えるべきでしたし、胸に刺さるような表現をするときのリカバーや、考え方といった教育をするべきでした。

欅のような表現にいたるアーティストには過去の人生経験があり、ある種必然性や裏打ちを持って表現をしていくのでしょうが、アイドルはつい最近まで素人だった人間を成長させていくカルチャーです。それゆえに、感じ方や考え方はまちまちですし、表現との付き合い方も理解できず辛い思いをしたメンバーも少なくなかったのではないでしょうか。

蛇足かもしれませんが、運営の人間は「勝つ」という言葉を複数回使っていました。日向坂でのドキュメンタリーでもこの言葉を耳にしたのですが、アーティストにとって「勝つ」とはなんでしょうか。勝利への道筋がある程度見えている状態で言われるならば、多少意気にも感じる可能性があります。しかし、欅の晩年においてなにをしたら「勝てた」のでしょうか。あまりに空虚な言葉に思えて仕方ありませんでした。

この「勝つ」という言葉にも、運営の単線的な思考が感じられます。一度止まってみるのではなく、毎回「勝つ」。「勝つ」ためには、メンバーを消費してもいいと思っているのではないか?少し疑念が残る言葉でした。

1-3 秋元康

殆ど出てきません。サイレントマジョリティーはもっとよくできるという芯を食わないアドバイスだけします。

この秋元が出ないというところに運営の無責任さが見て取れます。

彼はプロデュースするグループに問題が起きても本当に出てきません。必要なのかな?と少し疑問に思ってしまうくらいに。

 

2 オタクの責任

勿論オタクにも責任があります。運営に対してもっと違うアクションを起こせていたら、運営も考えを変えたかもしれませんが、オタクが特に変化しなかったので運営も止まらなかった、それだけのことです。

2-1 私の責任

 私は「欅オタク」ではなく、「欅ウォッチャー」に近い存在だと思います。だから、欅坂に対する一般大衆的視線も持ち合わせているかと。そんな私が欅坂に向ける視線は、「嘘っぽい」「やりすぎ」「痛い」とかそういうものが含まれていました。その反面、「曲が強い」「平手はすごい」という、これもまたよくある目線だったと思います。

そして、「欅と平手の崩壊が見たい」という極めて危険な感情を持っていました。グラディエーターを鑑賞するような気持ちです。それもつい最近まで。

なぜなら、平手の不調も内部の不和も全てプロレスだと思っていたからです。それが、この文の最初にあった「怖いものみたさ」に表れていると思います。

欅坂は悪く言えば、そこまで成熟した集団ではありませんでした。もっと脆弱で繊細な集団であることを忘れていました。

アイドルはアマチュアとプロの境界線にいるような存在だと思っています。だからこそ、ファンも運営もひと一倍考えていかないと、メンバーを追い込む可能性があるのです。

 

ギリギリの状態だった欅坂。一度荷物を降ろしてまた新たな光景を見てほしいし、見せてほしい。無理のない範囲で。

22 乃木坂オタクにおける「バレッタ」低評価問題

 深夜2時。衝動から書く。

私は数ある乃木坂楽曲の中でも「バレッタ」が大好きだ。

出だしのドライブ感あるドラム。全体に抑制の効いたサウンド。いい意味でアイドルらしさのないサビ。PVの意外性。堀未央奈というドラマ。

youtu.be

しかし、「バレッタ」の人気は低い。以前行われた乃木坂人気楽曲ランキングで45位であったが、もう少し高くてもいいくらいだ。私的にはかなり低く見積もっても20位内には入る。(意外BREAKも低すぎる!!!)

乃木坂46時間TV】乃木坂ベストソング21位~100位一覧 “もう『人間という楽器』かなりんの曲にすればいい説” : 乃木坂46まとめ ラジオの時間

 

しかし、この順位は「バレッタ」の評価の中ではかなりマシな部類であると思う。

各々検索していただければ、各種サイト(アイドル評論系)でのバレッタの評価は低い。

「わかりづらい」「ドラマ優位」とかいう言葉も散見されるし、いわゆる「バレッタ3回事件」(1ライブでバレッタを3回披露した。そりゃ飽きる。)のせいでいらぬ尾ひれがついている感じもある。

この3回事件を引き起こしているのは運営側の「堀未央奈をニューセンターとして大成させたい」という思いであり、それは1期生オタクからすればエイリアン的な存在にも見えた可能性がある。

PVでは堀未央奈白石麻衣を銃殺している。これは当時のオタクにとっていかほどの衝撃だったか。私はその頃オタクでないのでその全容を知らないが、容易に想像できる。

 

それを踏まえても、バレッタは乃木坂の特異点であり、転換点である。

音楽的にも優れているのに・・。という思いを抱かずにいられない。

実際、音楽オタクの乃木坂オタクに確認をとってみたところ、やはり私と同様の感覚を持っており、確実に音楽オタクたちの耳にも耐えうる強度を持った楽曲だ。

 では、それを踏まえてバレッタという楽曲はなぜ優れているか?という答えが以下である。曲を聞きつつ読んでいただけると幸い。

先述した、軽快なドラムの入り。

フルートと思わしき一音目がこの楽曲全体の道標を指し示す。この一音目のイメージをバレッタは守る。アイドル楽曲には珍しい「余裕」「余白」の姿勢。

そこから常にドラムが顔を出して、その存在を主張する。ドラムの音をもう少しタイトにしてもよいとも思われるが、この軽いながらも認識できる程度の音がバレッタのイメージを崩さない。

サビ。秋元康にありがちな詰込み歌詞でなく、すらっと歌い上げる。詰込みのある歌詞は「女子たちが‥」くらいで、基本的に楽曲のサウンドと歌詞が無理なく連動する。

間奏が終わり、もう一度ドラムで二番に。

「さあ推理してみようか」で万理華のあどけない声。この楽曲を通しての謎めいた感じにこの声は不一致と思うかもしれないが、極めて効果的だと思う。こういう声がバレッタを「アイドルソング」たらしめる。

その後、「そう僕の視線の先で」という部分を白石などの比較的落ちついた声のメンバーに歌わせる。そうすることで、解決を図るような仕組みになっているかのよう。

ラスサビ。ここで一度テンポを落とし、終わると見せかけてもう一度ドラムで復帰させ、最後にもうひと盛り上がり。

そして最後にもドラムを持ってくる。最初の入りと同じように。ここが憎い。最初から最後までしっかりビート感を忘れさせない。

バレッタは確かに抑揚に欠ける部分があるかもしれない(裸足でSummerなどと比べると)が、全体的に統一されたテーマで構成されており、無理やり盛り上げようとしない。だからこそ、楽曲としての完成度が高いのである。

 最後に、このバレッタのテーマ性、つまり「全容の見えない不思議な、魅力的な女の子」というテーマを堀未央奈はこのときからいままで保持させている。

堀未央奈はこの楽曲以降表題曲センターを務めていないが、今後堀未央奈がセンターをもう一度務めたとき、堀未央奈のイメージは更新されるのか。それともバレッタ的な曲をあてがわれるのか。堀の底知れなさを端的に表した名曲。再評価されてしかるべきだと強く願い、この文を締める。