むめい

音楽、映画、小説、スポーツ、ノルウェーのこと、とか。

23 「僕たちの嘘と真実」、それは無責任な大人によって作られたもの

 恐らく坂道オタクの間では十分に話題になっているであろう、欅坂46ドキュメンタリー映画「僕たちの嘘と真実」を観てきました。

先に見に行っていた友人から「本当に欅坂のイメージが変わる」「しばらく欅のことしか考えられなくなる」と言われていたので、期待半分恐怖半分で映画館へ足を運びました。

正直、明るい話ではないであろうことは私にも分かっていましたし、ちょっと怖いもの見たさ的なマインドも持ち合わせていました。ここはあえて太字にしています。

そして、観終わってこう思いました。

「欅坂は終わってよかった」と。

加えて、こうも思いました。

「俺は欅の破滅を見たがっていたのでは・・?」とも。

この感情が引き起こされた原因は2つ。簡単です。

前者は運営に対する批判。そして、後者はオタクに対する批判。

では、この2つの批判軸はどうできたか?を述べていきます。

 

1.無責任な運営

私は欅坂運営の人間ではないので、映画で提示された以上の情報を知りえません。しかしながら、劇中の大人たちはあまりに無責任で、いわば「勝利至上主義」から来るような単線的な思考でメンバーを摩耗させていきました。メンバーに限界が来ているのを知りながら。

では、なにが無責任なのか?

1-1 平手への対応

もう明らかなので、あえて言います。欅坂の存続条件には平手がセンターを務めること、そして、平手が納得できる制作ができること、という二つがあったでしょう。

一つ目は、平手が抜けたときの対応にもみられる平手頼りの体制に明らかでした。ほぼのメンバーは平手と比べて・・という対応で、その人のカラーで勝負する土壌が育っていなかった。劇中でその個性が見られるのは小池・鈴本くらいではなかったでしょうか。二つ目は、結局平手が納得しなければ作品を外に出さない体制です。劇中でもありましたが、平手が納得しないからシングルは出ませんでした。メンバーの感情を抜きにして考えると(したくはありませんが)、やはり欅は平手に支えられたものであったでしょう。

その絶対的才能を持つ平手を運営は使い倒しました。

これでは、平手は持たない、もしかすると生命の危険も考えられるのに。

この平手への対応に、私はひと世代前の高校野球を想起しました。

沖縄水産大野倫投手を思い浮かべたのです。

大野は偉大な才能を持っていましたが、それ故に監督は目の前の勝利に固執し、ケガをして本来の実力を出せていない状況の大野に「お前と心中する」と言い、マウンドへ送り続けたのです。そして、高校をもって、甲子園決勝に沖縄県勢を進めた大野の投手生命は終わりました。

平手への対応もこれに近かったと感じます。明らかに摩耗している平手。しかし、平手の絶大な才能を諦めきれず、大人は平手を表舞台へ送り出し続けます。仮に平手が「嫌だ」と言っても。

欅が平手と心中するなら、運営は平手への対応をもっと考えるべきでした。感受性が異常に高い平手に「孤独」「疎外」を歌わせ続けてよかったのか?

アイドルは自分で曲を選べません。ビリーアイリッシュはBad GayからMy Futureに移行できましたが、平手にそれはできません。黒い羊の平手は見ていられませんでした。

1-2 止まらない運営

 劇中、振付師のTAKAHIRO氏が「大人の責任」は「見守り続けること」と言っていました。正直、私はここに違和感を覚えずにいられませんでした。

あの欅の状態に対して大人がやるべきだったことは「立ち止まる」ことであったでしょう。見守って維持させてしまうと、本当に誰か危険な状態になってしまう可能性がありました。石森が述べたように、「みんなで崖のさきに手を繋いで立っている感じ」にまでメンバーを追い込んでいるにも関わらず、平手を重用し、勢いそのままにライブも行った。

運営はメンバーにもっと考える時間を与えるべきでしたし、胸に刺さるような表現をするときのリカバーや、考え方といった教育をするべきでした。

欅のような表現にいたるアーティストには過去の人生経験があり、ある種必然性や裏打ちを持って表現をしていくのでしょうが、アイドルはつい最近まで素人だった人間を成長させていくカルチャーです。それゆえに、感じ方や考え方はまちまちですし、表現との付き合い方も理解できず辛い思いをしたメンバーも少なくなかったのではないでしょうか。

蛇足かもしれませんが、運営の人間は「勝つ」という言葉を複数回使っていました。日向坂でのドキュメンタリーでもこの言葉を耳にしたのですが、アーティストにとって「勝つ」とはなんでしょうか。勝利への道筋がある程度見えている状態で言われるならば、多少意気にも感じる可能性があります。しかし、欅の晩年においてなにをしたら「勝てた」のでしょうか。あまりに空虚な言葉に思えて仕方ありませんでした。

この「勝つ」という言葉にも、運営の単線的な思考が感じられます。一度止まってみるのではなく、毎回「勝つ」。「勝つ」ためには、メンバーを消費してもいいと思っているのではないか?少し疑念が残る言葉でした。

1-3 秋元康

殆ど出てきません。サイレントマジョリティーはもっとよくできるという芯を食わないアドバイスだけします。

この秋元が出ないというところに運営の無責任さが見て取れます。

彼はプロデュースするグループに問題が起きても本当に出てきません。必要なのかな?と少し疑問に思ってしまうくらいに。

 

2 オタクの責任

勿論オタクにも責任があります。運営に対してもっと違うアクションを起こせていたら、運営も考えを変えたかもしれませんが、オタクが特に変化しなかったので運営も止まらなかった、それだけのことです。

2-1 私の責任

 私は「欅オタク」ではなく、「欅ウォッチャー」に近い存在だと思います。だから、欅坂に対する一般大衆的視線も持ち合わせているかと。そんな私が欅坂に向ける視線は、「嘘っぽい」「やりすぎ」「痛い」とかそういうものが含まれていました。その反面、「曲が強い」「平手はすごい」という、これもまたよくある目線だったと思います。

そして、「欅と平手の崩壊が見たい」という極めて危険な感情を持っていました。グラディエーターを鑑賞するような気持ちです。それもつい最近まで。

なぜなら、平手の不調も内部の不和も全てプロレスだと思っていたからです。それが、この文の最初にあった「怖いものみたさ」に表れていると思います。

欅坂は悪く言えば、そこまで成熟した集団ではありませんでした。もっと脆弱で繊細な集団であることを忘れていました。

アイドルはアマチュアとプロの境界線にいるような存在だと思っています。だからこそ、ファンも運営もひと一倍考えていかないと、メンバーを追い込む可能性があるのです。

 

ギリギリの状態だった欅坂。一度荷物を降ろしてまた新たな光景を見てほしいし、見せてほしい。無理のない範囲で。