むめい

音楽、映画、小説、スポーツ、ノルウェーのこと、とか。

18  多摩社宅少年

 卒論が忙しいのと、持ち前の怠惰が顔を出し、気づけば相当な時間ほったらかしにしていました。今日は、自分語りです。

 

 私は転勤族の子供です。父親は今でも転勤していますし、単身赴任は10年を越えました。小学生までは父についていったのですが、中学入学を機に母の地元に定住することが決まり、そこから私は転勤による引っ越しを経験していません。そんな私が幼稚園年中から小学校3年まで住んでいたのが東京でした。東京と言っても多摩の方ですが。我々一家は多摩の社宅に住んでおり、父は満員電車で疲弊し、母は東京の距離感の遠い人間関係に疲弊しておりました。しかし、私には少々のノスタルジアをくれました。この社宅での暮らしが人生で見て実は大きい影響を自分に与えていたのだ、という気づきのようなものが最近心に去来したこともあるからです。

 

社宅での暮らし、それはタイムリミットの暮らしです。仕事柄ほぼ確実に数年内に全員が引っ越しを迎えるからです。そこに暮らす家族、いや大人は表面的な付き合いになっていたでしょう。数年以内に引っ越すことが決まっている人間同士で仲良くするメリットがあまりないからです。母もそれがあり、疲弊してしまったのでは、と邪推してみたり。

子供はどうでしょうか。勿論、ほぼ全員が引っ越しを経験しているため、いつか別れが来ることは理解しています。それでも、私たちはおおむね仲良しでした。その瞬間を大事にしているから ―というと聞こえはいいでしょうが― (少なくとも私には)というような感覚はなく、ただただ社宅の目の前にあった広大な「原っぱ」(そう呼ばれていた)で遊ぶだけでした。それでも誰かが引っ越すなんて噂は定期的に出ていましたし、それに対して寂しさを覚えたりもしました。

その別れを含み置きながら、皆は原っぱでボールを追いかけていたのでしょうか。だとすればノスタルジアたっぷりの、泣かせる話です。

加えて、社宅の子供たちにはある程度の連帯がありました。「社会」が存在していたのですね。高学年のお兄さんたちは低学年に手加減して遊んでくれましたし、ルールの整備もやってくれたと記憶しています。また、私に「縦」の社会の存在を知らしめました。私が小学2年くらいのとき、その頃丁度引っ越してきたK君に私は普段通り話したのですが、K君は私を「敬語を使わないヤツ」として認識し、私の親に抗議したのです。当時の私は正直不安と怖さでビビりました。全員が「おともだち」ではなく、そこに明確な上下があったのか、と認識したからです。連帯のなかにも縦関係があり、なんとも古風な形の共同体が「転勤族」という新しい概念から生まれたのは皮肉的で面白いところだと思います。

 

そして今、あの頃の社宅の子供たちがどうなっているか私は知りません。本当に瞬間の友情になってしまいました。

この経験は私に少しのネガティブをくれました。距離の遠さと友情は極めて相性が悪いということです。その経験は私に少し冷めた友情観を与え、地元主義のヤンキーをとても苦手だと思う反面、すこし羨ましく思ったり。あの頃の社宅の子供たちはどういう気持ちで今を生きているのでしょう。それはもう私には分からないけれど。